公開日時: 2020年5月19日
下関市田倉の勝山御殿跡です。城跡なので少し高台になって開けたところにあるのですが、住宅街の道を奥へ奥へと行った山のふもとにあるので、地元の人以外はあまり知らないかもしれません。
今は公園(勝山地区公園)として整備されています。この石段は復元されたものだと思います。幅も高さも登りやすい。
城の建物の跡はなくて城壁の石垣だけが残されています。
階段上の広場では(この日は緊急事態宣言が解除される前の10日だったのですが)
ただトイレを借りに来た人だとか、サッカーや野球を楽しんでいた子供たちとか、柔軟体操をしている人とか、
結構沢山の方が来られてました。
文久3年(1863)、長州藩が攘夷を決行し、関門海峡の外国船に砲撃を開始しました。長府藩主毛利元周は、外国船の報復攻撃に備えて、海岸に近い串崎城麓の藩邸を離れ、覚苑寺に仮住まいします。そして、わずか5ヶ月で急造した藩邸が勝山御殿です。(下関市公式観光サイト 楽しも!)
@choboch
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